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海外の大学院に進学した人が就活に苦労している。頑張って勉強したのに何故なのか。

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久しぶりに、大学の友達と会った。

海外の大学院で勉強をしていたので、これから就職活動を行うとのこと。

 

日本では勉学にだけ励んでいた人は就職活動で不利になる。

海外の大学院に進学した友達は何人かいるのだが、彼ら彼女らを見る度に思う。

 

「自分の興味に任せて進学した人」は就活に弱い。

一方で、自分の興味を社会動向と照らし合わせて、「自分が行っていること、自分が行いたいこと」の社会的意義を自分なりに説明できる人が強い。

 

「会社」とは、社員のためにあるわけではなく、社会の中で必要とされているから存在している。

この「会社とは」を大前提に考えれば、前者よりも後者の方が就活に強い理由も頷ける。

 

しかし、ここが複雑なのだが、人は「社会」のために生きるために生まれてきたわけではない。

結局は自分のやりたいことを追い求めた人が一番幸せになるようになっている。

 

「社会」をスタートに置いて「社会のためにはこれが役に立つから、私はこれをやろう」と考えることは間違いだと。この前提で考えると、どんな企業の志望動機もできてしまう。どんな企業の志望動機も作れてしまうということは、それは自分の志望動機では無くなってしまう。誰でも言えることは、「私が志望する理由」にはならない。

 

従って、スタートは「私の興味」であるべきだ。

「私の興味」を大切にし、追及する。ここまでは誰もができていることだ。「自分の世界」で生きる人はこのままでも良い。

 

ただ「会社」に入るということは「社会という世界」で生きることを意味する。

社会の一員として、何らかの役割を担うことを求められる。

「私の興味」を大切にしつつも、一歩、二歩離れて見てみる。「私の興味」は社会ではどんな位置づけであるのか。その位置づけで「私がやりたいこと」を実現することによって、結果的に他者にどんな影響を及ぼすのか。その他者に与える影響というものは、「私の興味、私がやりたいこと」をより魅力的にするものなのか。

こんなことを少しずつ考えて、人に説明できるようにしておく。

会社の志望動機はこういうものだと思う。

 

「就活生に志望動機なんて聞いても仕方ない」ということで、志望動機を聞かない企業もあるという。

誰もが金太郎飴の様な志望動機を並べるのだから、こう思われても仕方ない。

 

しかし、会社とは社会の一部であり、就職活動では社会の一員となるための第一一歩だ。

会社(社会)に入る覚悟はあるのか、その覚悟を確かめるために「どんな立ち位置でどの様に振る舞っていきたいのか」をきちんと考えているのかを確認する。これが「志望動機を聞く」に繋がっているはずだ。

 

冒頭の友達の話に戻るが、大学院進学者(文系)で「やりたいこと」を社会的な意義と関連付けて考えている人は圧倒的に少ない。

会社は「やりたいこと」をやる場所ではない。会社は「社会で求められていること」を提供し、その対価を受け取ることで成り立っている。

会社に入る、社会で生きるのであれば、この辺りと折り合いをつける必要がある。

 

これが世に言われる「大人になる」ということなのかもしれない。

しかし、忘れたくないのは私たちが生きている理由は「社会のために生きるため」ではないということ。

 

折り合いをつける中でも「やりたいこと」を忘れずに、「社会で求められていること」と「やりたいこと」が上手いこと重なっている部分は追い続けたい。たとえ「やりたいこと」が実現できていなかったとしても、重なりを見つけようと模索する限り「夢を見続けること」はできる。

 

「夢を見続ける」とは「夢を実現できていない」ことを意味するのだが、それでも「幸せ」なら良いのではないか。

夢を実現すれば幸せになれるとは限らない。

 

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