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<医療裁判、難病、ガン、うつ病まで>家族がバラバラになるまでの10年間

「家族で仲が悪い」

「兄貴とは全く話さない」

 

高校生の頃までは、「えっ、何で家族で仲が悪いの」と思わずにはいられなかった。

だけど今なら理解できる。

 

うちの家族はバラバラだ。

昔はかなり仲がよかった。

せっかくなので、ここまで亀裂が入った軌跡を書いてみる。

 

この話は「父の死」から始まる。

父は不運にも手術の途中で亡くなってしまった。私が高校1年生の時だった。

端折って説明すると、とても難しい手術を受けた。

しかし、手術に関する医師の説明が不足していたり、手術に同意する前から手術の準備として点滴が始められたり、医療過誤が疑われる事柄が多々起こっていた。

医療過誤の裁判で勝つことはかなり難しく、10人ぐらいの弁護士に相談して全て断られた。ようやく引き受けてくれる弁護士が見つかったが、1年ぐらい経過した頃に「すまん、やっぱりできへん」と言われた。

ただのクズ弁護士なのか、病院側と組んで時効の時間稼ぎをしていたのかは分からないが、とにかく頼りにしていた弁護士が居なくなった。

 

普通の人だったら引き下がるところ、母は自分で訴訟を起こすことにした。

 

母は家でカルテとにらめっこする日々を始める。

病院側と「手術、父の死」の話し合いの際は録音をした。裁判に向けて、録音内容を文字起こしする際は、当時高校1、2年生だった私も手伝った。中学3年生ぐらいの弟もたまに手伝っていた。

 

父の死だけでも悲しかったのに加え、「手術内容や医師の不透明な説明」を文字起こしのために繰り返して聞く作業は、精神的にかなりきつかった。

そんなこんなで、詳しくは思い出せないが、4,5年かかって最高裁まで裁判は続いた。結果は敗訴。

母は観光学に関する専門学校を卒業しただけなので、医療に関する知識なんて何一つ持っていない。おまけに、母の母語は日本語ではないので、大きなバインダーが5つ分にもなる膨大な量のカルテを読み込むのはかなり苦労したはずだ。素人ながらに、訴状を作成したり、その他諸々の書類作成から何から何まで全部やっていた。専門用語を調べながらカルテを読み解き、意味が分からないものは私と弟に確認しながら読み進める。

 

「旦那が亡くなった本当の理由を解明したい」という一心でこんな骨の折れる作業を4年以上も続けていた。

 

その間、母は仕事をしていない。貯金を大切に使いながら過ごす日々が続いた。今思えばこんな状況で私立の高校に通わせてもらっていたなんて、親不孝だった。

母が行っていることの意義は感じながらも「そんな大きな問題に取り組まず、普通に生活したい」と思い続けている自分もいた。

裁判の第一審、第二審で敗訴した時も「こんな生活はやめたい。父が亡くなったのは悔しいけど、普通に生きたい。頭がおかしくなりそうだ」と何度も喧嘩をした。私の心は母から段々と離れていった。ここまで裁判を続ける母が悪者のように見えていった。

 

高校時代は、学校のカウンセリングを定期的に利用した。

「父との死別」は友達と共有し、共感を得られるような話題ではない。更に医療裁判を起こしていることなんて、友達に言ったところで何も変わらない。

しかし、悲しみや苦しみはどこかで吐き出さないと生きていける気がしなかった。かと言って、家で泣くわけにもいかない。家では母がカルテとにらめっこし、果敢にも病院と戦おうとしているのだ。

この時のカウンセラーさんには本当に感謝している。素直に自分の気持ちを吐き出し、大泣きできた唯一の場所だった。

 

高校三年生、大学進学を考え始める頃。学部は迷わず「法学部」を志望した。第3希望ぐらいの私立大学に入学し、入学当初から将来について考えて行動を始めた。高校、大学と私立に進み、どこまでも親不孝者なのか。

 

一方で弟は、迷わず医学部を志望する。弟なりに考えがあったのかもしれないが、家にはお金が無かった。私も複数の奨学金を使って大学に進学していた。

そんな弟は国立の医学部ではなく、私立の医学部を目指すと言っていた。一般的な私大の卒業までの学費が500万と言われている中、私立医学部は、3000万円~といわれる高さである。

「普通の大学にしろ」という話をすると弟は怒り出す。この頃から私は弟と仲が悪くなった。

 

私が大学に入学してからも医療裁判は続いていた。

「大学」という新しい場所で私の気持ちは少しずつ明るくなっていった。塾講師のバイトをし、書籍代や携帯代を払う。サークルではよく「飲み会」をしていたが、そんな場所に行く余裕なんてなかった。1年生の頃は、友達と夜ご飯を食べたことは3回あるかないか。サークルの夏合宿も6万円ぐらいかかるとのことで欠席。すぐに辞めた。

 

「弁護士」を夢見て法学部に入学するものの、当時は「大学院に進学しないと弁護士になれない」というルールができつつある時代だった。(現在は、予備試験合格者が弁護士になるための司法試験を受験できるようなルールになっている)

大学院の学費に加え、一般的に司法試験を受けるためには、大学院とは別に塾に通う必要もあると言われていた。(大学院の勉強内容と司法試験の内容が異なるため)

金銭手的なこと、自分の知能、弁護士ができること、など色々考えた結果、弁護士はやめて普通に就職することを選んだ。

何せ、家の貯金が底をつきそうだったから。

 

とは言え、金を理由に自分がやりたいことを諦めることは自分にとっても良くないし、就活の際にもよくないと判断し、「留学」を決意する。

当時のバイト代を全て、TOEFLの受験料、書籍代に費やした。留学という夢のために20万円ぐらい使ったかもしれない。図書館で夜遅くまで勉強していた時の夕飯は家から持っていったおにぎりと50円の味噌汁で済ませていた。

夏場には油断しておにぎりが腐りかけていたこともあった。

 

ただし、バイト代を稼いで生活費を家に入れたことは無い。私もかなり自分勝手だった。こんな私を見て家族の心も私から離れていったのかもしれない。

 

弟は高校進学時に「医学部を目指す人のための特別なクラス」に入る。しかし、大学受験で一番肝心な高校3年生の頃に「クローン病」という難病にかかる。安倍総理もかかっている潰瘍性大腸炎と似たような病気だ。

腸が荒れ、高熱が続き、入退院を2回ほど繰り返す。落ち着いた頃に退院するが、「普通のご飯」が食べられず、信じられないくらい不味い流動食を飲み続ける日々が続く。

集中して勉強できるわけもなく、志望校には落ちる。

 

しかし、諦めずに医学部を志望し続ける。ここで私は「お金も体力も考えて、普通の大学に行けよ」と言い、いつも弟と喧嘩をする。浪人中、最初の2年は予備校にも通っていた。お金は教育ローンで賄い、今でも母がこのローンを払い続けている。医学部進学について、家族で何回も喧嘩をした。多浪を重ね、今では何浪なのか数えられない。

 

そんなこんな状況の中、英語の勉強を続けた結果、大学の交換留学制度で1年間留学できることが決まった。留学の費用は日本学生支援機構の「貸与奨学金」でまかなう。

しかし、留学が決まってから気持ちが沈むようになった。

私は心療内科に通いはじめた。病院の先生には「死別からうつ病になることは珍しいことではない」と言われ、少し安心した。

 

母は仕事を再開した。以前の仕事を辞め、慣れない販売の仕事を始めた。留学の前に、家の洗濯機が壊れたので、留学で家を空ける代わりに洗濯機をプレゼントした。

 

私の留学中、母は販売の仕事を順調にしていた。しかし、販売仲間に100万円をだまし取れてしまう。母は販売の仕事を辞め、別の場所で販売の仕事を始める。別の販売の仕事でも地味な嫌がらせを受けて辞める。その後は飲食でのバイトを始めるが、セクハラがあり辞める。その後は宅配便の事務の仕事を始める。

 

留学は私の人生を大きく変えた。他の人よりもお金(奨学金)と時間はかかったが、このお陰で今の職場で働いている自分がいるし、生きる上で大きな自信となった。気持ちも強くなり、心療内科に通うことは無くなった。この決断は絶対に間違っていなかったと自信を持って言える。

一方で、留学に来るような人と自分の境遇との違いに肩身の狭い思いもする。皆、驚くほど金持ちだった。親が一部上場企業の役員だったり、商社だったり、地方の上級公務員だったり、という人だらけだった。こういう人たちと一緒にいて私の価値観も変わってしまったのかもしれない。

 

そんな留学を経て、無事に働きたかったところから内定をもらう。

大学卒業間近、母が新しい事務の仕事に慣れ始めた。私がバイトで貯めたお金で、母と二人で1泊2日の箱根旅行へ出かけた。「今から少しずつ恩返ししていこう」と思っていたので、こうした旅行ができてとても嬉しかった。

 

私が入社して1か月が経ち、母の卵巣にガンが見つかる。私は新しい職場に慣れていない時期で、父との死別がフラッシュバックし、精神的にかなり落ち込んでいた。病院選びを慎重に行い、手術は何事もなく終わったが、母は体調を崩す日が増えた。

 

私の社会人2年目の夏、母は仕事をやめる。職場の陰湿ないじめが原因だった。

社会人になってから家にお金は入れていたが、その額が段々と増えていく。母の貯金もさすがに尽きる。

家には浪人生の弟がいる。

段々と私の不満が溜まっていった。

母は、家に引きこもるようになった。人と話すのを嫌うようになった。外で仕事をすることを考えなくなった。

「お母さんもお母さんなりに考えているの」と言い続けて一年以上経った。体調が悪い訳ではないが、ずっと家にいる。

 

こうして書いてみるとこの10年間、我が家には色んな事がありすぎた。

ここに書いていないことがまだまだ沢山ある。

 

父が亡くなってから私の家族は3人だけ。

親戚も遠くにいるので、頼りになるのはこの3人だけ。

3人で背負うにはどの問題も重かった。

更に3人とも驚くほど自分のやりたいことに忠実だ。

 

私に至っては、かなり我がままなので、こんな家を出て独り暮らしをしたいと思っている。

弟が医学部を目指すのは現実離れしていて、普通の大学に通って欲しいと思い続けてきた。弟は私を恨んでいる。「医学部を目指すなら自分で使うお金は自分で賄え、バイトをしろ」と言ったことを恨み続けている。今でも「医学部を志望する人は普通バイトしない。あの時バイトしろって言ったお前のせいで勉強もろくにできなかった」と言われる。

 

私立の高校、私立の大学(奨学金)に行かせてもらったので、本当は親にもっと恩返しすべきなのだろう。しかし、「光熱費、食費を出しているのだがら十分だろう」と思っている自分がいる。更に「母も元気なうちに少しで良いから働けばいいのに」と思ってしまう自分もいる。

 

母と弟から見ると私はかなり我がままだ。

「そんなに稼いでるのに家にお金を入れるのがそんなに惜しいのか。全部自分で使いたいんだろう」

私の普段の態度が彼らを奴隷のように扱っているらしい。

 

私は私なりに家族に気を遣ったつもりだった。去年は3人で北海道旅行へ行き、今年は母と金沢旅行へ行った。二人の誕生日には美味しいものも食べに行った。

こういうことをしている時の私は、態度がでかいらしい。

 

「何でこれくらい我慢できないの。家族を養うのがそんなに勿体ないことなの?」と言われ続けてきた。

 今年は弟の最後の医学部受験だ。「入学金はどこから湧き出すのだろうか」とふと考えると落ち着かない。

心が狭いので、これ以上我慢できない。

今年も何度か喧嘩をしている。

2人は私に家を出て行って欲しいと言っている。

 

 

もし父が生きていたら、ここまでバラバラになっていただろうか。

頑固な3人。

「うちの家族は普通じゃない。だからこの状況も仕方ない。」と思い続けてきたが、私はいつも「普通の生活」を求めてストレスを感じてしまう。

家族がいれば幸せだと思っていたが、今は2人から離れたい。

「元々家族の仲が悪かった人」から見たら、こんな私は相変わらず我がままなのだろう。

 

こうして、10年かけて家族がバラバラになった。

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