個人的な関係でウソをつかれたとわかると、人はちょっと頭がおかしくなったような気分になってしまう
アンドリエヌ・リッチ 『嘘、秘密、沈黙。』, p.315
誰しもが「嘘をついたこと」があるように、「嘘をつかれたこと」もありますよね。
嘘が軽くても、嘘だと分かった時の、あの何とも言えない気持ち。
例えば、遅刻した理由を「仕事が忙しかったから」と言っていたのに、実は単なる「寝坊」だった時。「寝坊」そのものに対してよりも、嘘をつかれていた事実について「頭がおかしくなったような気分」になります。
私たちは、なぜこんな風に感じるのでしょうか。
『真実について』という著書で「頭がおかしくなったような気分」になる理由が説明されていたので、ザクっとまとめました。
私たちは、無意識の中で「知らない人」の話は、8割ぐらいしか信用していません。
例えば、知り合ってばかりの人が「私は大富豪です」と言った場合、直ぐ信用するでしょうか?表向きは、「そうなんですか!凄いですね」と言っても心の中では『そんなバカな』と思うはず。
一方、「友人」の話は、基本的に何でも信用します。「少し疑う」というフィルターが無い状態なのです。
だからこそ、友人の嘘に気付いた時は、心の中にちょっと頭がおかしくなったような気分が生まれる。私たちの「真偽を区別する能力」が実はあまり信用できないものだと分かってしまうから。
嘘をつくような人を信じてしまった、私たち(被害者)にも欠陥があるということが明らかになってしまうのです。
(もちろん嘘つきが一番悪いのは言うまでもありません)
まあ、こんな事実を知ったところで嘘をつかれた時のあの「変な気持ち」が紛れることはありません。
ただ、嘘をつかれた時に自分を責める必要が無いことは間違いありません。
(嘘つきが悪いに決まってますし)
「人を信じること」は、社会で生きていくためには、必要な能力です。あらゆることを一々「何が本当なのか嘘なのか」毎回判断することは骨が折れる作業です。時間も消費しますし、心も疲れていきます。
同じように、「嘘をつくこと」も社会では必要な時があります。相手をむやみに傷つけないためです。
人がつく嘘は、心理学的に分類されています。
約束を何かの理由をつけて断るなどの予防線、失敗を責められた時にする言い訳などの合理化、ありもしないことを言うその場逃れ、金銭が絡んでいる場合に自分が得をするための利害、自分を理解、擁護してもらうための甘え、犯してしまった過ちを隠す罪隠し、相手との関係で自分が優位に立つために嘯かれる能力や経歴、自分をよく見せたい虚栄心からの見栄、相手を傷つけないための思いやり、笑って済まされるからかいや冗談の引っかけ、自分の知識不足などから生まれる勘違い、そして、意図的ではないが約束を果たせず結果的に嘘になってしまう約束破りだ。
生きていくために、人を信用することが大切であり、嘘をつく必要がある場合もある。つまり、人を信用していれば、嘘をつかれることもあります。
全ての嘘を許容する必要はないですが、その嘘があなたを思うための嘘であれば、「嘘を軽く受け流す能力」も社会では必要なのかもしれません。
とはいえ、やっぱり嘘をつかれると気分が悪いものです。
自分がやられて嫌だったことは人にはしない。
嘘によって気分が悪くなった私たちにできることは、嘘を軽く受け流しつつ、同じような思いを他者にさせないことではないでしょうか。
万が一、嘘を軽く受け流して私たちが傷つかない術を得る事ができた場合でも嘘をついてきた人への不信感はそう簡単には消えません。
結局は、正直が一番。
真実の大切さについてより詳しく知りたい場合は以下の『真実について』がオススメです。