2000年に製作されたイギリスの映画。
リアルな描写に思わず「実話?」と思ってしまいますが、実話ではありません。
中学生ぐらいの時に見た時は「なんだこの映画。何が良いの」と全く理解できなかったが、26歳になって見返したらとても素晴らしい作品だと気付いたので、あらすじと感想を書いていく。
あらすじ
1984年。イングランド北部・ダーラムの炭鉱町エヴァリントンに住むビリー・エリオットは、炭鉱夫である父と兄のトニー、そして軽度の認知症を患う祖母と一緒に暮らしている。母はビリーが幼い頃に亡くなっていた。当時のイギリスは炭鉱不況の真っ只中で、父とトニーはストライキ(en)に参加していた。父はボクシングの熱烈なファンであり、近所のジムにビリーを通わせている。しかしビリー自身は、殴り合うというボクシングの特性に馴染むことができなかった。
そんなある日、ボクシング・ジムの隅でバレエ教室が開かれることになった。もともと音楽が好きであったビリーは、音楽に合わせて優雅に踊るバレエに魅せられ、密かに教室に参加しコーチであるウィルキンソン夫人の指導を仰ぐ。ウィルキンソン夫人はビリーにバレエの才能を見いだし、ビリーも上達していく。
しかし、内緒のバレエ教室通いを知った父は激怒し、親子には亀裂が走る。ビリーから亡き母の手紙を見せられたウィルキンソン夫人は、彼女を偲ぶ。ストは長引き過激化し、リーダー格の兄トニーは警察に逮捕される。ウィルキンソン夫人はビリーにオーディションを受けさせようとするが、家族の苦境を目の当たりにしたビリーはそれに従うことができない。ビリーの才能を訴えるウィルキンソン夫人に対し、父は「ビリーをあんたの暇つぶしのおもちゃにするな」と言い放つ。
クリスマス、亡き妻の思い出から逃れようと形見のピアノを燃やす父。閉塞感に満ちた空気の中、外に出たビリーは無心に踊る。父はその姿に才能を確信し、ビリーの望みを叶えることを決意する。翌日、父はスト破りの列に加わる。トニーは激怒するものの、事情を知った炭鉱仲間がカンパをし、ビリーはロンドンのロイヤル・バレエ学校を受験することができる。
14年後、父とトニーが駆け付けた大劇場で、ビリーが「白鳥の湖」を踊る。
3回泣いた。主人公ビリー、家族、友達、バレエの先生の苦しみ、もがき、希望にかける思いを感じて。
「ジェンダーフリー」の概念が広まった現在でさえ「男のくせに」というフレーズが使われる。1980年代に生きたビリーは「男の子なのに」クラシックバレーに興味を持った。親に変人扱いされることを恐れながらも「自分の好きなこと」に没頭する。
クラシックバレーの本をパクったり、風呂場の鏡で何度もターンの練習をしたり。ビリーがダンスに没頭している様子は「好きな人が気になって気になって仕方ない、頭から離れない。誰かを真っ直ぐに思い続けている姿」と重なった。
金持ちになりたいからダンサーになりたいわけではない。有名になりたいからダンサーになりたいわけでもない。ただ、ただ「好き」という強い気持ちから体が動く。情熱に突き動かされたダンスへのひた向きな姿に涙が出てきた。
ビリーがダンスに没頭することを拒むのは、当時のジェンダー観に加えて家庭の貧しさ、家族との価値観の不一致もあった。母を早くに亡くして父子家庭。認知症の祖母の面倒に、不景気。ストライキに参加する父と兄。ビリーのボクシングのグローブはおじいちゃんからのおさがり。バレエ学校に通うなんて夢のまた夢。兄がストライキの主犯格として逮捕される中、精神的にもバレエの練習に集中できる環境が整っていたわけではない。
亡くなったお母さんが残してくれた「18歳のビリーに向けて書かれた手紙」は早々に読んでいた。寂しさや不満を抱えながらも親に反抗してグレるわけでもない。認知症のおばあちゃんの面倒もきちんと見て、家族の重荷にならないように、自分ができることはしている。幼いながらも色んなことをコントロールしていたビリーにとって、不満や不安、寂しさもダンスをしている時だけは忘れられたのかもしれない。
ビリーにはマイケルという友達がいた。マイケルはビリーの頭を授業中に叩くが、ビリーは全く怒らない。マイケルにゲイであることを打ち明けられても距離を置くわけでもない。「ゲイ」「バレエダンサーを目指す」一見、共通点が分からないが、「街の価値観に反するマイノリティ」という意味では、分かり合える部分があったのかもしれない。
ビリーは「男でバレーが好きだからといってみんなゲイなわけではない」と何度も否定するが、映画を見ていると「ビリーもゲイなのでは?」と思うシーンがいくつかある。
・女装しているマイケルを拒絶しない
・凍えた手をお腹で温めてくるマイケルを拒絶しない
・バレーの先生の娘デビーとベッドでじゃれ合ってキスしそうな距離になってもキスしない
・デビーに「私のあそこ見る?」と聞かれても「いいや」と軽くあしらう
ビリーのゲイ疑惑について、映画『リトルダンサー』の監督スティーブン・ダルドリーは「解釈は人それぞれ。解釈したいようにすれば良い」と述べている。
“I think everyone’s different,” Daldry responded. “People can interpret it any way they want.”
参考:Is Billy Elliot Gay? Is Liza Admitting To Marrying Them? | Village Voice
明言してないなんて・・・ちなみにスティーブン監督自信はバイセクシャルを公言していて男性と長い間同棲しているみたいです。
ちなみに私の解釈は「ビリーはゲイではない(でもバイセクシャルかも?)」。
映画の最後「白鳥の湖」の主人公としてビリーが舞台に立つシーンがある。父と兄が劇場の招待されて着席。隣の席には女性の格好をしたマイケルが座っている。マイケルの隣には彼氏らしき人。
ビリーの父・兄の席とマイケルの席が偶然隣になることはあり得ない。マイケルもビリーに招待されて劇を観に来たのではないかと仮定した時、ビリーがゲイであればマイケルと恋仲になってもおかしくない。マイケルがビリーに好意を寄せていたことは明らかだし、ビリーもマイケルを受け入れていたからだ。しかし、マイケルと連絡を取り合って、招待する仲にも関わらず、マイケルに別の彼氏がいるところから、ビリーはゲイでは無いと解釈した。
思春期にも関わらず、ビリーがデビーに全く関心を抱かなかったのは、既に「ダンスに恋していた」から。ゲイであるマイケルに嫌悪感を示さなかったのは「自分と違うこと」を受け入れる素養があり「社会の価値観と反していてもどうしても好きになってしまう気持ち」を理解できたからではないかと思っている。
葛藤や不安の中でもひた向きに好きなものを見つめ続ける。お金や名声などに関係なく、好きなものに没頭する姿は心打たれるものがある。
自分の好きなものに気付いている人はどれだけいるだろうか。
「お金を稼ぐために仕事に時間を捧げる。趣味に費やす暇は無い。」という現実を受け入れつつも現実的なことは一旦忘れて「熱中できるもの」と出会う。
嫌なことや不安を全て忘れさせてくれるもの。ストレスや嫌なことを忘れるための「現実逃避」とは異なる。
好きで好きで仕方ないもの。周りの理解なんて要らない。「社会で価値あるもの」かどうかも関係ない。そんなものに出会えた時、毎日が楽しくなる。
「夢を持とう、好きなことを見つけよう」と背中を押してくれる、幸せな人生を送るための勇気をくれる映画だった。
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