ブロギングなう

毎日ブログを書けば文章力が上がるのかを検証中

4月はやっぱり疲れますねん

今週のハイライト

・夜のお出かけからの体力回復に専念

・人に会うために東京を出る

・OB訪問に対するお礼のメールがないので人事に通告

・職場の近くでポケーっとしていたら知らない人に話しかけられてOB訪問の依頼を受ける。顔が割れていることに恐怖を覚える。

・仕事でプチ事件発生。精神を消耗。

・早起きできるようになった。自然と目がさめる。

・スタバの店員さんがいつもより可愛いい

・統計の勉強をしてない。

・気持ちがそわそわする。

・顔にボツボツができた

・そろそろ人に会うの疲れた。絞ってもいいかも。

 

 

今日はもう寝る。

 

OB訪問される側の心構え。OB訪問で出会う失礼な学生?その対処法はあるのか。

この記事はOB訪問される社会人に向けて書いています。
OB訪問を希望する大学生は「こんなことを考える社会人もいるんだ」ぐらいに思って読んでください。社会人も所詮人間です。
 

OB訪問を引き受けるのはなぜ?

大学生から「お会いしたいです」と言われて「良いよ」というのは何故なのか。
 
・一人でいるのが寂しいからとりあえず話す相手が欲しい
・大学生にアドバイスしてやりたい
・学生時代にOB訪問した恩を返したい
・女子大生・男子大生と話したい(下世話)
・会社でOB訪問を引き受けると評価される
・大学生と話すことで自分の考えの棚卸ができる
 
お願いを引き受けるのは、自分にとって何らかのメリットがある。
 
某金融企業にお勤めのAさんは、お昼休みが無くて夜22時まで何かを食べる暇もないくらい忙しいのですが、
「大学生のために」と言いながらOB訪問を受けていました。
 
まじかー。
うそだろー。
そんな忙しい人がメリット無しに行動するのかよ。
あなたはマザーテレサですかーーー。
 
 

 OB訪問で社会人が嫌な思いをする!?

 
先程のAさん「この間訪問に来た学生がさー、・・・でもう最悪だったよ。凄く忙しいところ、せっかく時間取ったのにさ」とボソリ。
 
ご愁傷様です。
 
OB訪問を受ける社会人は、基本的にボランティア。
仕事終わりのクタクタの状態、もしくは大切な昼休みを使って大学生とのおしゃべりに付き合います。
何らかのメリットを望んでOB訪問を了解したのにも関わらず嫌な思いをするなんて、絶対に嫌です。
 

社会人が受ける被害例

Aさんに限らず、OB訪問で社会人が大学生から被害をこうむるのは珍しくない。
 
社会人からの被害報告
1.会社について全く調べてこない
2.態度が失礼(タメ口、偉そう、服装がラフ)
3.学生の話が長すぎる、つまらない
4.勝手に注文したにも関わらず、お会計でお金を出そうとしない
5.御礼を言わない、御礼のメールを送らない
 
 

悪いのは学生?

私も実際に話のつまらない学生から3時間拘束されて延々と自分の話をされた苦い思い出があります。
学生が話している時もひたすら「早く帰りたい」と思った記憶があります。
しかし、ここで悪いのは学生なのでしょうか。
つまらない話を3時間も聞き続けた日に、よくよく考えてみました。
 
学生は悪くない。自分に非があるのでは?
 

大学生に遠慮は要らない

OB訪問は、社会人としては「OB訪問のお願いがあったから、させてあげている」立場。
例えるならば、「好きです」と言ってきた人にデートの機会を与えているようなもの。
 
従って「社会人だから上の立場」であるだけではなく「頼まれている側」なので、紛れもない優位な立場です。
 
例えば、1.~3.の被害をこうむった時は話を早く切り上げればいい。
「ごめん、仕事で急務があるから切り上げるね。」→解散
理由は何でも良い。社会人なら適当な嘘ぐらい思いつくだろう。
 
4.の場合も普通に割り勘にすれば良い。
デートを誘った側が奢るのであって、誘われた側が社会人だからと言って奢る筋合いはない。
割り勘でいこう。
 
こう考えると、1.~4.の被害を被っている社会人は「我慢」しているだけであり、被害者ぶっていますが、自分のために「イケている社会人」を演じるだけです。
 
最初に述べた通り、OB訪問は社会人にもメリットがあるから受けているのである。
メリットが無ければ断れば良いだけなのです。
 

文句を言うぐらいなら訪問を受けるな

OB訪問をコントロールできる立場にいながら、無礼な学生に我慢するのは実にバカバカしい。無礼な学生の文句を言っている人を見ると、社会人としての対人能力の低さを露呈しているようで、聞いているこちらが恥ずかしくなります。
 
大学生に文句を言うぐらいなら、OB訪問なんて受けない方が良い。
 
変な学生なんてメールのやり取りで「オヤ?」と思うことがある。
そんな場合は「忙しいから無理です」と大人な対応をするか、「既読スルー」をするか、どちらか選べばよい。
メールで気付けなかった場合は、人を見る目が無かった自分、「会っても良い」と判断してしまった自分を反省しつつ、その日の訪問を早々と切り上げれば良いだけなのだ。
 

改「OB訪問を引き受けるのはなぜ?」

大学生は社会人を楽しませようと思って会いに来てくれるわけではない。

彼らは彼らの人生をより良いものにするために、彼ら自身の人生のために社会人に話を聞きにくるわけである。
 
これを踏まえて、OB訪問を受ける側の社会人は「OB訪問を引き受ける意味、メリットは何か」をよくよく考えて欲しい。
何も考えないまま訪問を引き受けると「会ってやってる」という立場上、どうしても「こいつはここがダメ、あそこがダメ」と考えがちでつまらない時間になる。
 
 
OB訪問で「大学生が最悪だった」と文句を言う社会人に問題があると考えて本記事を書いた。
 

(102/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中

春の病?全て春のせいだ!!!

もやもやもやもや

 

もんもんもんもん

 

気付いたらポケーっとしている。

頭が働かないし、理性が感情に負けている。

 

これは春の病。

いっその事、考えるのをやめてみようかな。

 

この6行を書くのに1時間もかかってしまった。

 

はぁ~、とか思いながらツイッターを見たら「国旗」がトレンドになっていた。

普段は国旗のことなんて一ミリも興味ないくせに、誰かが「これは大問題だ!!!」と叫ぶのを機に、大して考えもせずに「これは大問題よ!問題よ!」とリピートする人がたくさん出てくるのは何故なのだろうか。

 

「ルール違反だからマジで大問題」という主張も完全な思考停止で寒気がする。

棒と旗。

それだけ。

どうでもいいわ。

 

 

そんなことより、綺麗に散る桜が私のトレンド。

 

空に桜が舞い、新芽がだんだんと顔を出す。

 

空色、桜色、新芽色の組み合わせが絶妙すぎます。

 

この3色の美しさに気付いたのは、今年が初めてかもしれない。

毎年見る桜なのに初めての魅力に気付けた。

昨年の自分と今年の自分の違いを感じた瞬間だった。

 

なんていい季節なんだ。

桜の木が新芽でいっぱいになる頃には、私のモヤモヤやモンモンもすっかりと散って、また違うことに夢中になっているのかな。

 

 

 

こんなブログを書くなんて。

やっぱり春の病です。

 

(101/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中

祝・ブログ毎日更新100日目だからなんだし。別に何にもないし。

気付いたら毎日ブログを更新して100日目になっていました。

 

so what ですね。

 

 過去に30日目記念や、60日目記念で記事を書いた時とは大分違う気分です。 

少なくとも60日目までは「毎日ブログ更新して偉い」と思っていましたが、

 

今となっては、ネットという大海原にゴミのような情報を垂れ流していて申し訳ない。

ただ「ブログってそんなもんだろ」と逆切れに近い吹っ切れで乗り越えています。

ゴミも何かの肥料になるかもしれないですし。

こんなこと思う余裕があるぐらい、ブログ更新が習慣となってしまったということでしょう。

 

また「毎日更新」の定義も少し緩めました。起きているうちは12時を回ろうが前日の更新としてカウントするということです。

日付変更をタイムリミットにするのが大ストレスだったのと、別にギネス記録を目指してるわけでもないので、「自分で決めた1日更新」を達成すればいいやん。

 

連続更新を達成したこと自体は冷めた目で見ていますが、「続けられた理由」は当初と変わらず、読者の皆さんのお陰だなと思うわけです。

 

記事についている星であったり、ブックマーク。

いつも見てウキウキしています。

ブックマークにコメントもたまに付いていて嬉しくて、、でも返信の方法が分からずでモヤモヤして。

星は、ほぼ同じアイコンがいつも並んでいて安心したり。

 

やっぱり、「何かやる」ってのは一人でできるものではないな。

 

これは常々思うことです。

「何かできた」というと、どうしても「私がこんだけ頑張ったからできたんだ」と最初は思いがちですが、少し冷静になるとそんなことあり得ないことが分かります。

 

自分の頑張り+誰かの支え(精神or物理的)

 

「自分も人の支えになりたい」と思ってくるわけです。

 

一人で全ての人の支えるのは不可能ですが、一人ひとりが自分のできる範囲で「人を支える」を意識していれば、「支え」合いのリレーができる。

良い感じで、皆が皆のことをそれぞれの得意分野で支えれば良いのに。

こんな呑気なことに思いを馳せましたが、この考え方も一種の宗教のようなもので、他の人には押し付けられないのがモドカシイ。

 

ある人に何かをした(してあげた)。

私が何かをする時(してあげる時)は、その人が別の人に「何かをしてあげる」ということを期待しています。

だけど、これが上手くいかない。

それとなしに話をしても「この私が何で人のために時間使ってそんなことをしなきゃいけないの?」と言われて会話終了。

 

無念。

 

こう考えてみると、何かをする相手を無差別に選ぶのではなく、この考えに共感してくれそうな人に絞った方が良いかもしれない。

自分の宗教を忠実に守れるのかも。

 

 

なんじゃこの話は。

100日目更新と全く関係のない話。

 

ま、こんな感じで残りの265日も毎日更新していこうとっと。

 

(100/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中

尊敬します!大学生が「サークル」でむやみにやる気を出すのは凄いと思う。

大学生と話すと

「サークルでやる気のない人をほにゃららすることを頑張って、結果~できました」という話を聞く。

 え。

「何で。サークルごときでほにゃららできるんですか。」 

とても不思議

 

私は大学時代、意味不明な集団から離れて自分に合う人と群れればいいと思って過ごしていたから。

気に入らなければサイナラ。

やる気が無い人もサイナラ。

友人関係もサイナラ、コンチハの繰り返しだった。

 

だからこそ、問題が起きた時も一つの場所に留まって問題を解決しようとすることはとてもスバラシイことだと思う。

 

仕事を始めるまで気付かなったことなのだが、職場にもやる気のない人はいる。

 

「やる気がない」 とは、隙さえあれば仕事をサボる。仕事をサボって人に迷惑をかける。「マジで仕事やりたくないんだけど」とネガティブ発言をして周りの士気を下げる。

金もらってるのに何だこのザマは!

こんな人がいることが不思議でならないのだが、そういうものらしい。

うちの組織では、やる気が無くて周りに迷惑をかけても村八分にされない。

 

職場は簡単に変えられない。

この問題とは向き合うしかない。

どう考えてもメンバーがおかしいと思っても、

このメンバーでやっていくことを考えるしかない。

 

サークルでやる気が無くてほにゃららで、うにゃららだった状況を

おにゃららした話は聞いていて関心する。

ほにゃららな奴らと付き合うことは、職場でも必要になるからだ。

 

学生の時は「サークルなんて頑張ってどうするのよん」と思っていたが、

決まったメンバーで物事を成し遂げる時には大切なことなんだ。

 

 

(99/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中

マニュアル人間じゃだめなんだ(実感)、同僚の優しさに全米号泣。

きょうのテーマは、あるプロジェクトを通して感じた2つのこと

・マニュアル人間じゃだめなんだ

・同僚の優しさに涙

 

 

昨年末、比較的多くの人が関わる仕事のプロマネを任されていた。

通常業務とは異なり、年に1回の業務だったためマニュアルに忠実にミスなく仕事を進めた。プロジェクトメンバーの皆が先輩だったので、マネージャーという立場での振る舞いを難しく感じることもあったが、なんとか先輩の気をそらして問題なく業務終了。

 

へ~、一安心~。

普段とは毛並みの異なる大切な仕事だったので、ホッとした。

 

新年度に入って、どんんどん新規のプロジェクトが立ち上がっていく。

昨年度と同じようなプロジェクトや初めて担当するプロジェクト、どういう風に進めるか改善点は無いかと頭に余裕を持たせながら、今後の作戦を練っている時だった。

 

先輩その1「最近、省エネだね~。ところで、昨年のプロジェクトの~どこに保存してる?」

 

は?何ですかそれ。

美味しいものですか?

頭が真っ白になってマニュアルを見返すと、書かれていない。

なんじゃそれええええ!!!

前任者の異動、マニュアルの不備が重なり、作業がごっそり抜けていのだった。

最終納期まで余裕があるのが不幸中の幸いだが、ショックだった。

年度末の面談で「いつもミスもないし、よく仕事しているよね。色んな意見言うしね。」と褒められたばかりだったから。

 

全て雪のせいだ!!!と言わんばかりに全責任をマニュアルになすりつける。

先輩その1「全然悪くないから気にするなよ」って。

 

だけど、気になる。

実は私、ずっと気になってた。

「何で~しないんだろう」って。作業しながら実はめちゃくちゃ気になっていた。

普段の自分であれば、プロマネや周りの人に疑問を呈していたに違いない。

「~ってやらなくて良いんですか?だって、・・・ですよね?」

 

今回は「上手くやらなきゃ」という変な焦りもあったのだと思う。

ずーーーーっと、「何で~やらないんだろう。」と思いながらも

・~ってマニュアルに書いてないし。

・この規模でプロマネやらされるの初めてだし。マニュアルに忠実に取り組もう。

と頭をグルグル。

 

今思えばこれがいけなかった。

 

ハインリッヒの法則が頭をよぎる。

ハインリッヒの法則(ハインリッヒのほうそく、Heinrich's law)は、労働災害における経験則の一つである。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。

引用元:ハインリッヒの法則 - Wikipedia

 

今回の「ミス」をハインリッヒの法則の「労働災害」に置き換えてみたい。

単なる「マニュアルの不備」として片付けるのではなく、その他多数の「異常」が重なって起きたことだと理解した方がこの経験を次の仕事に役立てることができる。

 

この記事を書きながら、今までは業務理解のためだけに読んでいたマニュアルの見方が変わったし、プロマネであれ、フォロワーであれ、立場は選ばずに疑問を共有することの大切さを痛感した。

 

・マニュアルを読む際は、業務全体の把握に努めるだけではなく、「ベターな方法」を考える、「マニュアル対する疑問」を同僚と共有する

・作業中に何らかの異変に気付いたら、その点を同僚と共有する

 

こうして、急遽「昨年度、漏らしてしまった~の作業」を早急に行う必要が出てきた。

しかし私は他のプロジェクトで手が空いてない。

この問題をプロジェクトメンバーに説明。

1人に対して説明していたら、もう1人がチラりとこちらを見る。

「〇●さん、これ一緒にやってもらえます?」とすかさずに誘う。

そうしたら「何か手伝います?」ともう1人加わった。合わせて3名がこの作業の完遂に名乗り出てくれた。

 

全米全私が泣いた。

何て優しいんだ。

立場は違えど皆さん先輩なのに・・・優しすぎる。

嫌な顔せずに自主的に名乗り出てくるし。

暇なのか(おい)

 

(ありがちなまとめ)

結局、仕事ってのは一人ではできないよな。

「これは私の仕事で、あれはあなたの仕事」なんて考え方は、同じプロジェクトを行う上でありえない。

どうしてもプロジェクトが重なった時は、プロジェクトメンバーではない人にも平気でお願いして自分の仕事をしてもらう機会が増えた。

手が空く機会が少ないが、逆の立場になった時は喜んでお手伝いしたい。

 

全身筋肉痛で、眠くて眠くて仕方ない日だったけど、

良い日だったわ~。

 

(98/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中

ケバブが憧れの食べ物ではなくなる瞬間

誰もが子供の頃は考えたことがあるだろう「腹いっぱいに~を食べてみたい。」

私は「ケバブ」を腹いっぱいに食べてみたかった。

 

ケバブ」を初めて知ったのは、中学2年生ぐらいの頃。上野のアメ横で初めてケバブ屋さんをみた。今までにないスパイシーな香りに、中東系のお兄さんが「おいぃしぃいケバブだよーーー!」と大声で客寄せをしていた。ドキドキしながら近づき、初めての味にかぶりつく。ジューシーなお肉に辛いソース、こんなに美味しい食べ物がこの世にあったのかと驚いた。

帰宅してからもあの美味しさを思い出しながら、また度食べられる日は来るのだろうか?と思っていた。家の近くにはケバブ屋さんが無かったこととハンバーガーの様に手軽に食べられるにも関わらず、600円もするケバブは中学生の私には、憧れの食べ物となった。

 

高校生の頃は、一時期「移動式のケバブ屋」が近所に来るようになった。帰宅時にケバブ屋さんを発見するとお小遣いから奮発して購入する。たまーにくるケバブ屋のトラックを見つけた日は、すごくラッキーな気持ちになった。しかし、数カ月も経たないうちにケバブ屋さんは来なくなってしまった。警察に注意でもされたのだろうかと心配になる。

 

大学生になると、大学やバイト先の近くにあった色んな食べ物に手を出した。ベトナム料理、タイ料理、インド料理、等々。色んな国の食べ物を食べても依然、ケバブが私にとって特別な食べ物であることは違いなかった。大学4年生の時、近所にケバブ屋さんができた時は飛び上がるくらい嬉しかった。アルバイトをしていても大学生の時はいつもお金が無かったので、ご褒美としてケバブを食べる。一つ購入する度にポイントカードにスタンプが溜まっていく。10ポイントが溜まると無料でケバブ1つと交換。1年のうちに2回無料ケバブをゲットした。

 

 

そうしているうちに社会人になった。ある日、普段は歩かない道でケバブ屋さんを見つけた。とても美味しそうだった。近所のケバブ屋さんとの味比べをしたい、と思ったのと同時に「今はお腹が空いていない。食べようと思えばいつでも食べられるからいいや」と思っている自分に驚いた。学生の頃は、「お金が無いから」という理由でケバブを我慢したが、今となっては「お金はあるのに」ケバブを食べなかった。

 

中学生の頃の自分は「毎日ケバブを食べたい」というくらいケバブを欲しがっていた。しかし、今となっては「毎日ケバブを食べることのできる条件」が揃っていても実行しない。

腹いっぱい食べると自分にとってのケバブの価値が下がることを恐れている。

「特別」を失わないために、自分の中での「希少性」を維持するために流通量を調整しているようだ。

 

無限に食べれる時点で、「憧れ」では無くなってしまう。 

 

人が一生のうちに食べることのできる憧れの数は、決まっているのかもしれない。

 

(97/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中