妻を亡くした方が記者会見を開いている様子を動画で見た。
正確に言うと、Facebookのポストで動画が流れてきたが、じっくり見ることはせずにそのまま他のポストを読み続けた。
動画を見ていないので今回の記者会見が開かれた経緯は全く分からない。
亡くなった方も闘病の末に亡くなったということしか分からない。
何も事情は知らないが、悲しみの最中に涙を流しながらカメラの前に立つ必要があるのだろうか。
泣きながら妻への思いや死に至るまでの経緯を語っているのではないかと推測するが、その情報は私たちにとって意味あるのものなのだろうか。
有名人の夫婦だったからこそ、訃報だけでは足りずに事実に関する心情を述べることも社会から求められているのだろうか。
こんな情報、誰が知りたいのだろうか。
人の死に関して、悲しい以外の何があるのか。
私には全く理解できない。
怒られるかもしれないが、こんな報道はどうでもいい。
誰もが身内を亡くす。
その苦しみは身内でしか共有できない。
厳密に言うと家族間ですら苦しみの共有が難しく、死に関する悲しみを一人で抱え込むこともある。
こんな繊細な内容を速報扱いでニュース番組が流す意味が分からない。
この死には「ストーリー」があるのかもしれないが、ニュースが流すべきは「事実」であり、その事実は読み手が得るのに値する内容であるべきだ。
人の死がエンターテイメントの一つとして扱われている様な気がして、嫌悪感しか抱かなかった。その嫌悪感から動画を視聴する気にもなれなかったし、もしかしたら、人が悲しみながら何かを語ろうとしている姿を目撃する勇気が無かったのかもしれない。
映画の主人公が大切な人を無くしたシーンを見るのとは訳が違う。
自分の傷が癒えていないからこそ、こういった報道に過剰反応しているのかもしれない。
大切な人との死別はとても辛いということを思い出した。
10年以上経ってもまだ癒えないし、この悲しみから完全に開放される日なんてこないのだろう。
それでも悲しみ(過去)に思いを馳せるのではなく、普段は「今」を生きている。
悲しいことを考えない様に半分自分を騙して生きているので、こういった報道が嫌だと思ったのかもしれない。
(172/365)←365日連続ブログ更新の記録更新中