「ねえ、アイス奢ってよ」とか「ご飯奢ってほしい」と言ってくる人たちが大嫌いです。
「奢って!」と言っている人を見ると「何様だよ(ボソォ)」と思ってしまうので。
一方で、大学時代に社会人と交流し「先輩から奢られること」を学んでいきました。
会計の時に「払いますよ」と申し出ても大抵の大人は
「君が社会人になったら、後輩に奢ってやれ」と嫌な顔一つせずに奢ってくれました。
多くの大人から受けた恩を返すべく、大学4年生の頃から「後輩には奢る」ということを始めました。
社会人になっても「後輩へ奢る」は続きます。むしろ「奢らない」という選択肢は残されていません。
「●◎さん、質問があります、聞きたいことがあります」と頼まれたついでに後輩にご飯をご馳走することには抵抗感は無かったですし、学生時代に大人から受けた恩を返せている気がして嬉しい気持ちになりました。
ただし、「奢って!」と言ってくる人に対する嫌悪感が根底にあったせいか、「同世代から奢られること」への嫌悪感は持ち続けます。
1年前に友人からこう言われたことがありました。
「この前お世話になったからお礼に今度奢るね!」
「人から奢られること」に嫌悪感を感じていたのと相手に負担を感じさせたくないという気持ちから
「そういうの要らないから気持ちだけで十分だよ」と断ってしまいました。
当時は、上手に断って相手の(金銭的な)負担にならずに良かったと思ったのですが、
断った時の相手の表情が忘れられません。
なんだか残念そうな顔をしていたのです。
この時は、なんで相手が残念そうな表情をしているのかという理由が分かりませんでした。
この出来事から約1年経ってようやく気付くことができました。
「奢る」というのは、相手が感謝を示す方法でもあるんだと。
私が後輩に何の抵抗もなく、寧ろ嬉しい気持ちで「奢っている」のは、自分に奢ってくれた先輩への恩返しができている気がしたからでした。
私に対して「奢りたい」と思った人もきっと同じ気持ちだったのでしょう。
「感謝を示したい」と思って「奢るよ」と言ってくれたのを断ってしまったなんて、私はなんて大馬鹿野郎なんでしょうか。
おまけに、相手が「ありがとう」と言われる権利まで奪っていることに気付きました。
奢ってもらっていれば、私は絶対に相手に感謝を述べていたはず。
人は人から感謝されることほど嬉しいことはありません。
つまり「奢る」とは、「人に感謝を示せる」だけではなく、「感謝を示したことに対して感謝される」という相手にとってダブルでお得な行動だということに気付きました。
こうして、奢られた側(感謝を示された人)と奢る側(感謝を示された人から感謝される)は、「感謝」を通して絆を強くできると言っても過言ではありません。
1年前の私に教えてあげたいです。
あなたが「無為意味におごって~~」と言ってくる人に対して嫌悪感を抱いているのは自由だけど「奢るよ」と言ってくる人を拒む必要は無いんだよ。
寧ろ「奢るよ」と言われたら素直に受け入れてそれに対してちゃんと感謝を伝えればいいんだよ。
「奢って!」と言ってくる人が大嫌いなあまりに、とても当たり前なことが分からないようになってしまっていることに気付きました。
1年前に「奢るよ」と言ってくれた人に今から連絡取ろうかな。
「ねえねええ?1年前に焼肉奢るって言ってくれたよね?焼肉食べたいんだけど奢ってくれる?」
時すでに遅しです。
相手はとっくに忘れてしまっているかもしれません。
とても貴重な機会を逃したと、ただただ後悔しています。
「奢ってくれるの?ありがとう!」
次の機会は絶対に逃さずに言ってやろうと思います。
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